チーズケーキ
シュークリームだろう、って?
いえいえ、チーズケーキなんです。
マスカルポーネ・シュー。
中身のクリームが、チーズなんですね。
アトリエ・ド・フロマージュの目白店で購入です。
映画を観たのが、シネ・リーブルで、その帰りに。
結構昔からのお気に入り。
たまに、無性に食べたくなって、買ってきます。
リトル・ミス・サンシャイン
なんて言うのかな、
固執と挫折の物語?
こうも違う方向の固執を持った人の集まった家族、ってのも
なかなか無い気がするけど(笑)
今目の前にある幸せを、
固執のためにストイックに全て捨てていく…
その結果、何が残るのか。
固執の先にあるものより、
目の前にある幸せこそ、すばらしいものなのでは…
固執に挫折をしたところで、気付く。
この作品を観て、
笑える人のグループが2つ、
笑えない人のグループが1つに
分けられるような気がします。
負け組を嘲笑う人、
自分の中の固執に気付かされて笑えない人、
固執と挫折の因果からの成長に微笑む人。
コメディ、と言うには痛烈ですね。
微分積分
世の中。
新しいモノゴトが発見され、
その周辺のモノゴトとの関係が付加され成長し、
その中にたゆたう夢や浪漫を追い求め、
やがて感じたままをぶつけて表現するようになり、
更なる刺激を追い求めるジャンキーに行き着き、
崩壊し、
懐古する。
それは、いつか辿った道。
対象を換え、何度も辿る道。
何度も通っていると、通過速度は、どんどん速くなる。
lim v→∞。即ち、lim t→0。
それは、世の中が何かを消費するのにかかる、時間。
世の中の微分方程式を解くと、何が残るのだろう。
音楽の正体
昨日、敬愛なるベートーヴェンを観て、
ふと、久しぶりに読みたくなった本を、書棚から。
書籍版よりも、もしかするとTV番組のほうを御存知の方も居るかもしれません。
1993年の冬くらいに、フジテレビの深夜に放送されていた番組、音楽の正体。
音楽という魔法の理論を解説した、番組と書物。
といったところでしょうか。
バリエーション、禁忌進行、副5度、転調、過転調…
そして、無調へ。
それはまるで、中毒と、奈落への転落。
「敬愛なるベートーヴェン」で、第九の後に語られていた
大フーガや、病床から口述していた無調無楽章の音楽。
後の世で評価され…と世間は言うけれど、
果たしてそれは、何を基準とした評価なのでしょう。
中毒世界での評価なのでしょうか…
歌会始
今年のお題は「月」だそうですな。
いつ観ても 顔しか見せぬ お月様 その背に秘めし 想いや如何に
なんて詠んでみるのはどうでしょう。
地球のことは表も裏も見ているのに、
自分は表しか地球に見せない、月。
同じ、回る関係でも、
地球は太陽には表も裏も見せているというのに。
月が自ら、その裏側を地球に見せた時…
どうする、地球っ!
敬愛なるベートーヴェン
さて、もう1本。
敬愛なるベートーヴェンです。
変奏曲、遁走曲。
言うなれば、クラシックにおけるジャズ。
ある旋律が脈動する姿は、素晴らしいものだが、
やはりそれも、ある一線に達すると、
一般のキャパシティとしては飽和してしまい、
以後は過剰であり苦痛となり、崩壊してしまう。
その越え難き一線を越えると、
そこは、ある意味ではとても素晴らしい世界かもしれない。
しかし、それは同時に、他の場所にもある素晴らしさを受け取ることを、
全て捨てているのではないかと、思う。
そして、この作品で採り上げられている「第九」の演奏会は…
アンナという理解者によって、その一線上ギリギリに完成することができた、
そんな気がします。
最大の幸せというのは、
越え難き一線のわずか手前を複数愉しみつつ、
現実世界に根を下ろし続けることにあるのではないか、
そしてそれは、ソナタにおいて2つの主題が葛藤し融和していくように、
2つの異なる視点がうまく調和することにあるのではないか、
そんなことを、思いました。
こまねこ
こまねこ。
ほのぼのとした雰囲気は、コマ撮りのぬいぐるみ達によるものでしょうか。
リラックスして、童心に返って、観れました。
そして、
現代って、「見なかったことにする」を多用する世界であるがゆえに、
その先にある「良いこと」も見えなくなってるなぁ、と
そんなことを思いました。
心の隙間から、あたたかさを注入してくれるような作品ですね。
表現する
筆者が、blogに何かを書き残すスタンスが、
少しずつ変化しています。
はじめの頃は、情報になりそなモノを主体に、
悩みとか葛藤とか毒っ気のあるモノとかは全面禁止だったのですが、
最近は、葛藤面とか心境とかも綴るようになってきました。
それは、
グレーな部分、黒い部分にフタをして見ないことにしてしまうのは簡単だけど、
そんなことをしても問題の先送りとか、表面的な話に始終するとか、
要は根本的な深いところは何も表現できなくなってしまうな、
と思うようになったからかもしれません。
毒を吐きあって、傷つけあっていた数年。
心地よいと感じられるであろう表現ばかり作っていた数年。
そして、内面も表現していこうと思っている昨今。
対症療法ではなく、根治を目指す旅は、険しい。
ラッキーナンバー7
またハシゴです(笑)
続いては、ラッキーナンバー7。
唐突感だらけのストーリー。
それらは、用意周到な計画的伏線なんだけど、
見てる側ですらそうとは気付かない。
そういうギャップ感は良いんだけど、
その割には、落としどころの話は随分小さくないかぃ?
と思ってしまいました(汗)
愛の流刑地
またも公開初日から見に行ってしまいました(笑)
深いですね、このストーリー。
硫黄島もイロイロ考えさせられましたが、
愛の流刑地もまた、イロイロ考えさせられる、良いストーリーでした。
はい、以下は毎度の通り、
筆者の人生観と混ざった感想です(笑)
「普遍的客観性」って何なんだろう…
当事者の主観でしか表現できない世界。
それを「解釈」しようとする、別の人の主観。
そこに相違があることを認め合えればいいのだけれど、
認めないが故に、あるいは立場上認めていないように振る舞うが故に起こってしまう、茶番劇。
ただ、1つ言えるとすれば、
主観の中にしかない幸せは、同時に、周囲を傷つけていると言うこと。
当事者本人は幸せかもしれないけれど、より多くの不幸を巻き起こすことでしょう。
そして、主観的幸せの代償としての、罪と罰。
溺れたい世界と、そこに飛び込む選択をすることに伴う責任と覚悟。
まぁ、筆者個人的には、
何かを代償にした幸せは、真の幸せじゃない気がしますけど、
それでも本人にとっては幸せなのかもと思うと、複雑な心境です。