異端と穢れ、棲み分けという選択
先日、禁忌の扉の向こう側というエントリを書きましたし、
規制の範囲を考えるでもカテゴライズ差別的な話を書きましたが。
向こう側とこっち側の棲み分けという観点でふと思ったことがあったので、
今日はその続きというか、合わせてこんな話もというか、そういうエントリです。
古来の異端に対する禁忌とか穢れとかのイメージって、
確かに一般市民サイドからするとよく解らない怖いモノとか触れるべきではないモノとかですが、
逆に異端視されるサイドからすると、むしろリスクがあるから近寄らない方が賢明ですよ、
という意味合いもあったんじゃないかな、と思うことがしばしばあります。
呪術医的なものであれば感染リスクとかもありますし、
屠畜精肉とかは生殺与奪もあれば腐敗病原もあるわけですし、
汚物清掃系だってヘタな扱いをすればやはり感染系のリスクは否めませんし、
任侠取締は自身の命を賭して活動してるわけですし、
性関係は次代の生命に関わってきますし、
まぁ程度の差も方向性もいろいろではありますが
知らない方が安穏と幸せに暮らすことができる、みたいなものはあったのかなと思います。
でもそういうのって、
「こっちに近寄ってもそれほど面白いことはありませんよ」という、
むしろ異端とされる側から敢えて発しているシグナルだったんじゃないのかな、と思うのです。
それがね、いつのまにか、
「異端視される活動をする者」でありながら「一般市民と同じ評価が欲しい」みたいな、
なんとなく妙に捻れた立ち位置を欲するようになったのかな、と
筆者はふと、そんなことを思ったのです。
もちろん、望まずしてその立場を強要されている人も居て、
そういう立場から脱して一般市民化する術、というのも求められているのだとは、思います。
あるいは、望まずしてそういう立場を背負わされてしまった、
いわゆる「いじめ問題」もまた存在したりします。
でもね、一方では、
そういうことを認識した上での敢えてのアウトローという選択、
ってのもまた、存在して然るべきだとは思うんですよね。
何て言うのかな、
自分で書き綴っておきながら上手い落としどころが無くて悩んでる感じですが、
無難に向けての同調圧力では解決しないさまざまなグレーゾーンって
たぶん不可避な要素なんじゃないのかな、とでも言うのでしょうか、
なんかあんまり纏まっていないもやもやしたものを書き綴ってみた
今日のエントリでした。
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