あかるくない農村
あー、いや、
殊更に農村をフィーチャーしようとかそういうことでは無いんですが。
これもまた、2つ前の記事の続きのようなお話。
漁民が農村で仕事をして、農民が漁村で仕事をして、
結果として生産できる量は1村あたり50。
サラリーマン市民が農村と漁村で仕事をして、
結果として生産できる量は1村あたり70。
農民が農村で仕事をして、漁民が漁村で仕事をして、
結果として生産できる量は1村あたり100。
1村あたり60あると食糧が充足するとして、
そのうち7割は自分の生産品、3割は相手の生産品、
といった食生活をしばらく続けていたとします。
農村なら野菜42、魚18。漁村なら野菜18、魚42。とかね。
余剰分は、他の豊かな生活をするための資金源として、
サラリーマン市に売っていた、とでもしておきましょう。
さてここで、農村の民が
「いやぁ魚やっぱり贅沢だからさ、野菜だけで生活するわ」
と、野菜60の生活を宣言したとしましょう。
逆に漁村の民は、今の食生活が良いと思ったとしましょう。
利害関係が崩れたので、もはや物々交換は成立しません。
農村は、遊ぶ時間が欲しいからと、余剰の野菜40の生産をバッサリやめました。
そして、無料で遊べるモノを集めて、遊んでは飽きて使い捨てている様子。
漁村は、物々交換どころか、野菜18を農村から買うことも出来ないので、
魚の生産を36減らして野菜を作ることにしました。
余剰は魚4…それまでの魚40から1/10にまで減ってしまいました。
…もちろんこのお話はフィクションですが、
どことなく、デフレ日本の「切り詰め縮小化」に似ているような気がするなぁ、と
筆者は思うのでありました。
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