演者と個性
現場によって、
主宰やプロデューサーや演出などによって、
求められることは都度変わったりもする世界ではあるけれど。
演者の果たすべき役割って、なんでしょう?
最終的なアウトプットに何を乗せたいか?という話がまずあって、
それに対してじゃあどういう表現をしていこうか?というプランがあって。
演者が「それをもっとも効果的に魅せるための立体人形」であるのなら、
演者の個性とか背景とかってのは、極力漂白したほうが良い。
でもこれが「その演者だからこそ言っているんですよ」という作り方であるのなら、
演者の自然な姿を極力活かした創りにした方が良い。
演じる側が器用であれば両方こなすのでしょうが、
とは言えそのアウトプット以外で付いた属性を含めて判断されたりすると、
どっち路線を主体として選択しておくか?ってのは結構大きな課題かもしれないわけで。
では逆に。
演者をコントロールする側からしたらどうでしょう?
あまり色の付いてないほうが好きなように脚色できるから良い、ってこともあれば、
ある程度色があるものを活用した方が効果の高いものが創れて良い、ってこともあって。
さぁて、両者とも両パターン出てきてしまったわけですが。
筆者的には…
色の無い演者を使って表現をしたいのであれば、
これからの時代、合成映像合成音声で済んでしまうんじゃないかな、と思いますね。
生身の人間同士でアウトプットを創っていくのですから、
お互いの考え方や背景を突き合わせて、より良いものに創り込んでいく。
そのほうが、より印象深いものになっていくんじゃないでしょうか。
人が変われば表現も変わる。
表現を変えるために人を変える演出もある。
器用になれば、一人でいろんな表現が展開できるかもしれないけど。
差し替え可能を追求する、ってのもまぁ、わからなくはないけれど。
それよりも、代替不可能な一期一会を求めていきたいと思う、筆者でした。
コメントを残す