偽ブランド。
最近巷にあふれている「偽装」の話。
よくよく訊いてみると、
対象物そのものを飾ることによる「偽装」はしていない様子。
では何が騒がれているのかというと、
瞬時にダウト!と断言できない程度の微妙な「ウソ」を少しずつ含ませているのだ。
昔を遡っていくと、
青い「あぶらがに」を茹でて赤くなったところで「たらばがに」と言っていたとか、
「鮭(樺太鱒)」とか「ししゃも(カペリン)」とか「しめじ(ひらたけ)」とか、
どこまでが「通称」で何が「ウソ」なのかよく判らないものがザックザク。
しまいにゃ、
おっさんの作った「かあさん風ハンバーグ」とか
仕入れの都合で出来た「シェフの気まぐれサラダ」とか
そんなところまで「待った」を掛ける始末。
ま、ウン千年前からあったんでしょうね。
そんな状態をズバッと言い抜く言葉があるじゃないですか。
羊頭狗肉
看板に偽りアリ。
最近は「トレーサビリティ」だの何だのと言って
いろんなものの出自を明確にしようとしていますが、
明確にしようっていう力が働くと言うことは即ち
「中間に関わっている人間を信用することが出来なくなっている」
ことに他なりません。
じゃあ流通してくる大元の生産者は信用できるの?
…それだって「顔が見えているから安心」とか言ってる場合じゃなくなってきます。
あの生産者はダメだったかぁ、じゃぁ次の…こいつもダメだったか…
しまいにゃ不良在庫の山と、完璧なモノを求め奪い合う消費者、
というところまで行き着くでしょうね。
そこに行かないようにする唯一の方法、
それは「信用される品質のモノを供給する人たちで構成されるコミュニティ」に向かうこと、
ではないのかな、と筆者は思います。
奪い合いと、与え合い。
モノの移動だけ見ていたら同じようにも見えますが、
その根底に流れるモノは、大きく異なることでしょうね。
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