表現と評価 その2
筆者は、結構多岐にわたったコンテンツを作っていたりします。
写真だったり、Podcastだったり。
作曲だったり、歌唱だったり、演奏だったり、シナリオ書きだったり。
まぁ、挙げればキリがないのですが、
仕事として作っているモノ、趣味として作っているモノ、
立場もレベルもさまざまだけど、それでもいろんなモノを作っていて。
いろいろ作っている中で、
とっ散らかっているようでいて、でも1本の筋が見えてきたような気がするコト。
そんなコトを、綴ってみようかな。
絵画でも写真でも音楽でも演技でも、あるいはその他の諸々でも、
表現者の解釈と技法が、受信者の想像した解釈と異なる、
なんてことは、日常茶飯事。
そりゃそうです。
育ってきた背景だって人それぞれ。
トラウマだってアレルギーだって、逆鱗的な要素だって、様々。
多少語弊がある表現、諸事情で特殊な解釈をされうる語句などの
NGワードだらけで表現が規制されて身動きがとれないくらいなら、
いっそ「NGだと思われる方もいるかもしれませんが」という選択だって、ありうる。
その選択によって、ターゲット市場は異なるモノになるかもしれないけど、
強制的にどっちかへと制限しないことこそ「自由」なのかな、と思うのです。
もっとも、表現側がそこで「自由」を得たところで、
他人からの評価の「基準」は表現者の自由になるわけではないですから、
そこには幾ばくかのアンチを生みつつ、ということになるかもしれません。
逆に、評価側、コンテンツを楽しむ側からして見れば、
表現者がどんなつもりでそれを作り上げてきたか?っていうウラガワは
想像するしかないわけですし、あるいは知ったこっちゃ無い部分でもありますし。
まぁ、簡単に言えば、
想定外の解釈、想定外の評価、なんてことは起こりまくるわけです。
でも、理不尽も、よくよく考えてみれば必然な部分もあるかもしれません。
そして…そこに乖離を見た時に、
理解をした上で、乗るべきか乗らざるべきかを自分で考えて、
乗るにしても乗らないにしても、ちゃんと結論を出して、信念を持って進む。
この辺のサイクルってのが、まずは腕より先に最も重要で、
あとはそれで活動している間に、しっかり腕を上げる。
そんなところなのかな?と思った今日この頃の筆者でした。
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