機械にAD性を求めるべからず
最近の機械は、ホント賢くなってますね。
自律的に判断して、人間がサボっていても活動しています。
あるいは、人間はたぶんこう考えているだろうと先回りをして、細かい操作を肩代わりしてくれます。
でも…ホントにそれでイイの?
ADに細かいことを全部任せて、んじゃ監督は何に力を入れるの?
いやまぁね、そんな細かいことは考えていられないから機械に任せて、
俺はこっちに集中して結果を出すんだ!ってのがあればいいですけどね、
大抵、手抜き目的だったり、細かいことを覚えられないからとか、
しまいにゃ「この機械賢いねぇ〜」なんて。
機械が賢いんじゃなくて、普通ならそんな機械を扱えないくらい知識無しの人でも使えるように、
というかそういう層の人にも買ってもらうために進化しているのではないかと思うわけです。
カメラのフルオートとかね、
画角とタイミングは撮影者次第だけど、それ以外の選択権はぜんぶ機械側。
被写体が何々だから、たぶんこんな画づくりがしたいんでしょ?って勝手に機械が判断してる。
まぁ、便利ですけどね。でも、使いこなしているとは、到底言えないでしょ。
機械に求めるべきは「基本性能の高さ」であって、
「自動判断の賢さ」では無いと、筆者は思うのです。
一定以上の高度な作業を要求される現場においては自動判断による補佐に救われることもありますが、
知識のない人が自動判断に頼って使っている、いや頼らなきゃ使えないというのは
何というかこう、機械に、メーカーに、操作させられているだけなんじゃないかと…
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