他粛とか自粛誇示とか
東日本大震災以降、自粛自粛とあちこちで聞く。
しかし、そもそも「自粛」って、「耳にするような言葉」なのだろうか、とも思う。
体の良い逃げ口上として多用されているだけなのではないか?とさえ思えるのだ。
自分から進んで、行いや態度を慎むのが「自粛」。
○○のことを考えて、××の行動を控えましょう、と促されていては、「他粛」である。
自粛してないヒトをどう捉えるかはそれぞれあるとも思うが、
それを強要していては、やはりどこかバランスがおかしいと言わざるを得ない。
逆に、私は○○を自粛しています!と声高に宣言していては、「自粛誇示」である。
ハッキリ言って、慎んでない。控えめでない。
自粛してるんだから、という語は、決して免罪符ではないのだ。
ましてや、誤った基準で自粛して、更にそれを誇示している、なんてのもある。
空回りも甚だしい。痛い自己満足でしかない。
更に言えば、他に理由があるはずなのに、体よく「自粛」と書き並べているものまである。
こういう状況下なので○○が手配出来ず、中止にします、とか、
××の情勢が不安定なので、様子見にします、とか、
「自粛ムードに流されてなんとなく」以外の理由が、何かしら存在するはずなのだ。
なんとなく今は自粛と言っておいたほうがカッコイイかも…ではダメなのである。
もちろん、行動するにあたっても、「被災者感情を鑑みて」という部分もある。
震災の影響で一部欠品があります、なんてのもある。
そこには、感情から来る辛味や苦味が効いているかもしれないけれど、
だからこそ、「満足出来る環境を作って行こう」という精神的バネになるのではないか?
そんなことを考えた筆者でした。
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