高いところに座らされているということ
3.11大震災から1週間。
減って来たとは言え、こうしてblogを書いている間にも余震がある。
多少の揺れなんか気にせずに暮らすということに慣れつつある人々。
一部を取り戻した、日常。
しかし、東京に居て、思う。
震災を、あまりにも遠くのことにしようとしては居まいか。
自分たちの暮らしは完全に平常である、と思い込ませようとしていないか。
懸命の冷却作業が続く福島原発は、関東の電力源だ。
女川だって関東への電力供給のバックアップ基地だし、
東通には(建設中とは言え)東京電力扱いの炉があるのだ。
瞬間直結的な、原発の電力だけじゃない。
今回被害の大きかった地域出身で東京で生活する人にとっては
ココロの支えである郷里がダメージを受けているわけだし、
北部であれば食料、南部であれば工業、など
そういった、都会を支えている柱にヒビが入っているのだ。
東京のことを「被災地である」とは言わないが、
どう考えても、ある一定の爪痕を残していると捉えてしかるべきではなかろうか。
それなのに、「自分たちは安全、自分たちは普通の暮らしをする」とばかりに、
それらの爪痕を「遠くでおこったこと」だと思い込んでしまう。
輪番停電を周辺地域に押し付けて、都内では「停電は回避されました」などと言う。
心の平静を保って、普段通りの生活をして、普段通りの経済を回して。
それも確かに重要なことだが、起きたことを心に刻み教訓としなければ、
前に進むことは出来ない。ただ、立ち止まり続けるだけになってしまう。
そんなことを、思った。
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