夢の中でディベート
今朝、起きる直前まで見ていた夢。
多芸多趣味の路線で行くか、
一芸集中の路線で行くか。
取材に飛んだり原稿を書いたり、夢の中では結構な日数が経過してました。
ちょうど、ディベート会場の会議室に入場するところで、目が覚めました。
夢の中では論議が出来なかったので(笑)、ここに展開しちゃいましょう。
筆者はrealでももともと多趣味党なので、
夢の中での立場も多趣味側の論客でした。
用意していた発言準備メモは、こんな感じ。
私は、いま世の中にあるものの何か1つを、
過不足無く伝承継承していく者ではない。
むしろ、全く新しい何かを、見いだしたい作り出したいとさえ思っている。
世の中の事象現象、あるいは芸術芸能や作品の1つについて造詣を深め、
その1つについての全てを知り模倣していこうと言うのであれば、
造り手が何を考えていたのか、そもそもその造り手はどんな環境を生きたのか、
極論を言えば、そこまで追求していかなければいけないかもしれない。
その造り手と同じだけの時間をかけ、理解していかなければいけないのではないかとさえ思う。
果たして、前代の作品を鑑賞する側、つまり我々は、
各作品、各造り手に対して、それだけの投資をしていくことが出来るだろうか。
そんなことをしていては、人生の時間なんてとても足りないのではないか。
それよりも。
深く理解するに越したことはないが、
表面的でも良い、誤解があっても良い。
沢山の作品に触れ、造り手の時間が昇華された結果を素晴らしいと感じ、
それらの作品が語りかけてくる何かからインスピレーションを受け、
オマージュを捧げ、新しい何かに繋げ生み出していくことこそが、
世の中全体の発展に繋がると、私は考えている。
表面的な理解とか、誤解とかなんて、造り手に失礼だと言う人もいるだろう。
しかしそれなら、ある1つを理解するため、という理由で
触れてさえもらえない他の作品達のことを、あなたはどう思うのか。
触れてさえもらえないのと、触れられたけれどあまり印象を残せなかったのとでは、
その作品が確実に存在したという決定的な差があるのではないか。
見さえしないのと、見たけどあまり印象に残らなかったのとでは、
印象に残らないという判断をした分の差があるのではないか。
確かに、生半可な触れ方で、ただ沢山の作品に触れればいいというものでもないだろう。
ルーチンワーク的に、ただ触れられ、通過消費されていくのでは、作品も可哀相だ。
だが、真剣に、できるだけ沢山の作品に触れるというのは、良いことだと思う。
あなたの処理能力を超えてまでいろいろなものに触れろとは、私は言わない。
だが、食わず嫌い的取捨選択のような色眼鏡は外した方が、
世の中もっと楽しいですよ、と、私は主張したい。
とまぁ、こんなことを夢の中でまで考えて。(笑)
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