無料と寄付と定価制
最近、というほど直近の話ではなくて
もうその傾向が出てから何年も経つ話ではあるけれど。
「基本無料」が幅を利かせている世の中。
いや…数年前まではそれでもまだ
「節約」「安価」「激安」だったような気もするのだけれど。
パンの耳とキャベツで凌ぐ超節約生活、みたいな話って、
どちらかというとセーフティネットの一翼だったと思うんですよ。
それがいつのまにか、
例えば試食コーナー巡りツアーみたいな、
本来サンプルとして供用されているモノを購入検討の意志一切無しに無償接収するような、
「だって無料で提供するって言ってるじゃん」部分ばかりを主張する世の中になってしまった。
何でしょうね、
対価として釣り合っていないモノに対して気が引けるというか負い目の感覚が無くなっている、
とでもいったところでしょうか。
もはや、お金という対価の尺度自体が壊れてしまって、
単純に「手元に大きな数字がある方が勝ち」になってしまったとでも言ったところでしょうか。
そして、ドネーション制ですよとか投げ銭制ですよとか言うと、
これは反応が両極端に分かれて。
バカにしてるのか!って思うくらいの極少額を出してくるパターンと、
普通に対価設定を考える中では畏れ多いくらいの高額を出してくるパターンと。
で、プライスリストがあって何々は幾ら戴くことになってます、ってなると、
そう設定されてるんじゃしょうがないよね、という反応だったりとか。
結局、コンテンツを受け取って対価を支払う側というのが
本来個々に持っているべき「価値観」というものが
完全に崩れ去ってしまっているのではないのでしょうか。
自分が作ったらどのくらいのクォリティのモノがどのくらいの時間で出来るのか。
そういう考え方こそが妥当な対価に関する本当の評価軸なのであって、
押しつけられた作業を嫌々ながらこなしていく時間が労働対価という考え方では
いずれモノの需給バランスが崩れて崩壊するところまで傾きかねません。
ソビエト崩壊は共産経済の悪い面が暴走して品質向上意欲が低下し…
なんてことを言っていた現代資本経済ですが、
煽動され特定品目のボリュームバリューに傾きすぎて他は退廃し…
ってなことになったら、供給意欲の低下を招くという意味では同じこと。
アプローチラインこそ異なれど、滅びの道ですよね。
妥当な対価について考えることを怠ってはならない。
ボッタクリを見抜く目と、感謝をする心とを、共に忘れてはならない。
そんなことを思った、筆者でした。
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